無謀な挑戦が人を変える。
最終更新: 2020年2月4日
こんにちは。
フリーランスでカメラマンをやっています、あらたです。
前回の記事からだいぶ期間が空いてしまいました。
誰かとは違う「何か」になりたかった。そんな僕が大学に入って出会ったもの。
この記事の続きです。
動画制作に興味があった僕が今なぜ写真の分野で生きているのか?
今回はそんな話です。
サークルで初めてPVを作り、ProjectNINOと言うチームが出来上がり、動画制作の活動を半年くらい行ったある日。チームの中の1人が「学生団体の立ち上げに誘われたんだけど、やらない?絶対力つくよ。」という話を持ってきました。
学生団体?
なんだそれ。
存在すら知らない言葉でハテナが浮かびましたが、「同じ志を持った学生が集まり学外でいろんな活動をしている団体」みたいな話を聞き、「おもしろそうやないかああああああああ」とスイッチが入り速攻で見学に行きました。
その学生団体は、、、
CampusCollection Tokyo
一般の女子大学生がプロのモデル講師のレッスンを受け、ブランドの服を着てランウェイを歩くという学生版ファッションショーのイベント運営をする団体。通称キャンコレ。
実はProjectNINOのメンバーで「起業しよう」という話が出たのもこの時期だった。 キャンコレに入る少し前。広告代理店をやろうと決まり進む方向がわかった時期だったので、キャンコレに興味が尽きませんでした。
渋谷の宇田川にある会議室で開かれた会議では、キャンコレ東京の初年度ってこともあり本当に0から話し合われていた。コンセプトから誰がどこの仕事をやるか、「設計」の部分。
それだけでも僕らみたいな学内のサークルから派生して少し背伸びした活動しかしてない人間からしたら衝撃だった。
「アジェンダ?」「FIX?」なんだその言葉は。
なんでそんなサクサクと事が決まる?
集客1000人以上?
できるのか?そんなこと。
同じ学生でここまで能力や知識が違うのかと、圧巻だったのを覚えている。
動画制作のスキルを上げたいと思いキャンコレに参加したのに、当時代表を勤めていた人に「お前将来起業するんだろ!なら絶対マネジメントをやったほうがいい。お前、制作局長やれ。」と無茶振りをされ、何回かキャンコレの会議に参加した後、制作局長に就任。
他の部署の局長など幹部陣は3年生。自分は2年生。
しかも立ち上げだからノウハウを持った人は大阪にしかいない。
制作局長はパンフレットやフライヤーのデザイン班、当日のランウェイ後方で流す動画を作る動画班、イベント自体の宣伝のためのHPを制作するウェブ班の統括をしてました。
じゃあそんな僕は、「デザイン未経験」「ドメインとサーバーの意味すら知らないウェブど素人」「切って貼っての動画制作で満足してた凡人」の3連チャンでした。
何をどうしたらいいのか全くわからない不安と、自分が頑張らなきゃイベントが死ぬプレッシャーと、無限に来るタスクに追われながら過ごす毎日。
あの頃の制作局だった人たちには多大な迷惑をかけたと思います、、、
そんな日々を過ごす中で、「モデルのウェブ掲載用の宣材写真撮影」「モデルのTwitterなどのPR用の写真撮影」の仕事が降りてきました。しかも、「みんな忙しく誰もできないならお前がやれ。」とのこと。
ここが僕の「写真本格デビュー」となります。
プロの方も同伴の宣材写真撮影。
「機材全部で100万を越えるからね〜」と言われてビビり、「お前のカメラじゃスペック低すぎて使えないから」と言われ使ったことないカメラを渡され、、、

必死こいて撮りました。モデル80人分。
カメラマン3人で手分けして撮影しましたが、制作局長なので撮影日すべての日程参加しました。

空き時間に撮ってもらった僕の写真。
全然顔違うし、持ってるカメラも僕のじゃないし、なんだこの写真と今思います。
そこからは個別でモデルさんと日程を合わせPR用の写真撮影。
まず1対1で人を撮ったことないし、撮り方わかんないし、編集の仕方もわかんないし、でもやるしかないしと、追い込まれに追い込まれていました。笑


これが当時の写真。
間違いなくその頃出せる100%は出せていたと思います。
そんなある日、キャンコレメンバーでカメラマンの尊敬する大先輩のレオという人と一緒に撮影することがありました。
「こんなチャンスはない!レオさんを見て勉強しよう!」
と意気込んで、レオさんの後ろをひっついて回って、どう撮影するのか観察して、真似て、真似て、真似まくりました。
そこであることに気づいた僕。
「同じ構図で、同じ設定で撮ってもレオさんと写真が違う。」
なぜだろうと考えたら、案外答えは簡単でした。
「カメラのスペックだ!」
このキャンコレという環境で生き抜けたのも、変にポジティブ、変に自信家なところがあったからだと思っているのですがその時も、「あーなるほど、俺はいつの間にか技術はついているのか。うまくなってたのか。追いついてないのは、カメラのスペックか。」と考え、撮影終わった瞬間に親に電話。
50万貸して欲しい。
我ながら突拍子もないお願い。笑
でも、当時はそれほど気持ちが燃えていました。
めちゃくちゃ説得してなんとか50万を借り、カメラが趣味の友達に電話して「おすすめの機種」を聞き、当時Canonの中で上から2番目だったカメラを購入。
次の日の撮影からそのカメラを持って現場に向かい、レオさんもさすがに驚いてました。笑
でもそこからの僕は無限覚醒状態。



モチベーションも、技術も、編集も、カメラを買う前とは比べものにならないくらい集中して頑張れました。1日8人撮影しろと言われようが、「やってやるよ」と言わんばかりに全力で撮影しました。
こうして新しいカメラを手に入れ、今までよりはるかに写真の楽しさに触れた僕は、気づいたらどっぷりその魅力に浸かっていました。


キャンコレの合間の時間でもカメラを持って風景やら街を撮影したり、普段は目に入らないような景色が目に入るようになったりと、確実に何かしらの変化は起きていました。
7月のキャンコレ本番もランウェイ前の定点カメラの担当になり、ひたすら歩くモデルの撮影。「定点といえどもどう良く撮るか」を意識して撮影するのが楽しく、当日は2千枚以上撮っていました。
そんな感じで無事キャンコレは終わり、引き継ぎを終え団体を抜けた後も、キャンコレつながりで撮影をお願いされることが多くありました。
青山大学の学祭のファッションショー撮ったり、一般社団法人HLABのサマースクールを撮影するために1週間徳島に出張したり、イベント撮影、プロフィール撮影、様々なジャンルの挑戦をさせていただいています。
今思えばキャンコレという知らない世界に飛び込んで、わけもわからないまま必死にもがいて、その結果写真の魅力に気づくことができて、それがまたチャンスに変わることもあって、、、
あの時諦めていたら?
あの時逃げていたら?
今の僕は絶対にないと思います。
無謀な挑戦が人を変える。
あの時キャンコレで関わってくれていた方々。
そしてチャンスを紹介してくれた方々。
本当に感謝です。
頭が上がりません。
そしてあの時諦めず頑張った俺!
よくやった!これからの未来は俺に任せろ!
絶対無駄にはさせない!
とまぁ、これが僕の「写真で生きるようになったきっかけ」でした。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。
正直大学入った頃の僕は、将来的にカメラマンとして生きるようになると思ってもなかったでしょう。人生は何があるかわからない。だからこそおもしろい。
今後も僕は様々な無謀な挑戦をしていくと思いますが、それがないと人は成長できないと思っています。「できない」ことが「できる」ようになる。これが成長です。
まだまだザコなので、前と変わらずチャレンジしていきたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします!
では!